赤木凡豚の考察レポート

しがないSF好きな暇人の赤木凡豚です。各種考察や感想、思い付いたことなんかをつらつらと記録します

『イノセンス』考3


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 「犬」。はい、今回は「犬」について考えていきます。有名な話ですが、このわんちゃんは押井作品の至るところに出てきているので要チェックです。そしていろんなところに出てきているということは、この「犬」自体には特別な意味は込められていないということが分かります。しかし一切無駄のない『イノセンス』において犬のカットがかなり多いことに気づきます。したがって「犬」を「愛玩動物の象徴」とみたとき、この「象徴」が作品に何らかの意味を付与していると推測できます。作中でも言及されていたように、理性や人間性という意味での「精神的完全性」は、全知全能なる「神」とそれらと完全に無縁な「非人間的生物」のどちらかによって実現するものであり、人間はどちらにも属せない中途半端な存在です。その意味で「犬」は人間よりも神に近い存在である「動物」の象徴として度々取り上げられていました。しかしこれ以外にも「犬」の存在意義はあるのではないかと私は考えました。これについて詳述しましょう。

 「バトーは犬を飼っている」。ここに私は注目しました。作中では「人間の子育て」と「子供の人形遊び」を人造人間の夢の実現とハラウェイは考えていました。これについて人間が神に憧れ、神のように新たな生命を産み出すために、人間は自らに似せた人造人間を錬成するのだ、とする解釈があります。しかしこの考えには根本的な欠点があります。人間を神が創造したということを受け入れた人でなければ神に憧れることなど起こり得ないのです。にもかかわらずこの考えはこうした神への憧れを言わば当然のものとして前提にしています。信仰という普遍性の極めて乏しいものを前提とした解釈は、当然それだけ反論や反証を示すことができるため余りに無駄が多いように感じます。そこでハラウェイの発言をやや異なる切り口から解釈し、何故バトーは犬を飼っているのか考えてみましょう。


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 先程批判した解釈は「何故人間は自らに類似した存在を作るのか」の考え方を違えたために導かれたものです。もっともこの解釈にも説得力はあります。物心二元論に基づいて、人間が中途半端さを補完する手段として神のように自らの理想形を創造したという考えは一理あります。しかし私が思うに『イノセンス』が伝えたいことは物心二元論に基づく人間の再定義ではなく、むしろはっきりとした物心二元論批判なのではないでしょうか。すると物心二元論に基づく解釈は話の本筋から外れた解釈だと言えます。私がこのように考える根拠は最後の助け出された女の子の台詞です。女の子はバトーに対して「だって、だって、私はお人形になりたくなかったんだもの~!」と叫んでいました。もし物心二元論に基づいて考えるなら、人間はその中途半端さを補完するために進んで人形になるはずですし、そのような台詞をストーリー上言わせるはずです。ところがこの女の子の台詞はこれまで述べてきた人間の中途半端さの補完を全て拒否したものとなっています。もしこれらを全て合わせて強引に物心二元論的に「人間」を説明すると以下のようになります。「人間とは、その精神的な中途半端さ故に動物や神に憧れるが、自ら人間性のない動物や人形には憧れず、むしろ拒む存在である」。説明の中で矛盾が生じています。人間は神になりたいのか、それとも憧れはしても今の状態に満足しているのか、どちらの解釈もできそうです。しかし草薙のように完全な精神の状態になることは到底不可能である以上、大半の人間は神や動物、人形に憧れはしても変わりたくはないというワガママな状態に立つ存在であると言えるでしょう。しかし物心二元論と人間の中途半端さを強調する解釈によれば、物理的もしくは精神的に完全体になることは人間の目指すべき到達点であるわけですから、これを拒絶するのは論理的にやはりおかしくなってしまいます。故に物心二元論ではこの「ワガママな人間」の説明を十分に行えないのです。

 ここで割りきってこう考えてみましょう。「人間は自分の及ばぬものを見ることで、自分がそれらとは異なる他ならぬ『人間』であることを再確認したがる不安定な存在である」と。つまり心身それぞれの完全性の憧れと追求という難しい考えから、心身を区別することなく自分と他者を比較して差異を再確認するというシンプルな考えに変えてみました。例えばロボットや人形を人間の理想形に模して作ることで、顔の美醜がある人間と模範的かつ規格化された顔を持つロボットは異なるという存在確認をする。物言わぬ人形と戯れる子供は、ごっこ遊びと実際の家族の差異を人形と人間の比較から確認し、自分が人間の集団にいると自覚する。子育てを通じて親は自我の確立した存在である自分を再確認する。そしてバトーは、自由気ままでマイペースに生きる飼い犬と過ごすことで、常に政府に首輪をつけられている自分を比較することができる。また自分では何も出来ない犬の世話を通じて、自分が人間らしく生活していることを実感している。この様にバトーが犬を飼っている理由は、それによって自分の現在を再確認することができるからと言える。

 まとまってませんが以上です。