赤木凡豚の考察レポート

しがないSF好きな暇人の赤木凡豚です。各種考察や感想、思い付いたことなんかをつらつらと記録します

バチカン市国研究について4

 少し時間が空きましたが、バチカン市国外交政策について前回の続きを話していきます。

 前回は司教任命権の重要性について説明しました。今回は中華人民共和国カトリックについてお話ししたいと思います。


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 勘の良い方はここで「おや?」と思ったかもしれません。そもそも社会主義を唱えたマルクスは、宗教を阿片だと非難し、人類の歴史とは生産力の発展と生産関係における階級闘争の歴史であるとする唯物史観を提唱しました。したがって社会主義では神の存在が否定され、人民を抑圧した封建社会の残滓として弾圧されがちです。例としてソ連ではロシア正教会が、カンボジアでは仏教が弾圧されました。ではなぜ中華人民共和国ではカトリックが公認されて活動できているのでしょうか。答えは中華人民共和国の成立過程にあります。清朝末期から日本の敗戦まで中国大陸には多数のカトリック宣教師が滞在しており、それにあわせて各地に数多の教会が建てられました。もちろん彼ら宣教師は、西欧列強による中国植民地化の尖兵という側面もありましたが、一方で学校や病院を建設したり、炊き出しなどの貧困者援助をしたりしていたため、特に地方を中心に信者も多く存在していました。中国共産党によれば、国共内戦終結時点で中国には農村を中心に約300万人のカトリック信者がおり、これはプロテスタントより多いものでした。すると中国共産党としても、カトリックを弾圧したのでは300万の人民を反革命的反動主義者に変えてしまいかねず、また学校や病院などの施設は建国当初の中華人民共和国にとって貴重なものでもあったため、革命後の中国に必要なのはカトリックとの共存であると考えるようになりました。折しも朝鮮戦争が勃発し、中華人民共和国では北朝鮮を擁護してアメリカ帝国主義から朝鮮人民を守る「抗美援朝運動」が展開されました。この際中国共産党バチカン市国を「美帝国主義の尖兵」、「反革命的封建勢力」と断罪し、バチカン市国の大使を国外に追放して国交を断絶しました。ところがこのキャンペーンは思ったようにはいかず、中国カトリック信者とバチカン市国の繋がりはなかなか崩れませんでした。そこで中国共産党は「抗美(反米)」、「反帝」という面からバチカン市国を非難するのではなく、「愛国主義」を持ち出してバチカン市国と距離を置くことを正当化するようになりました。バチカン市国のような外国勢力に介入されることなく、愛国的中国人民なら独自の運営と発展が可能であるという愛国主義的考えを喧伝し、「宗教団体を人民が自ら統治する(自治)」、「宗教を人民が自ら発展させる(自養)」、「宗教を人民が自ら布教する(自伝)」という三つの理念『三自主義』を提唱しました。その結果、中華人民共和国には三自主義に従ってローマ教皇庁からの独立を唱え、中国共産党政府が公認したローマ・カトリックの一会派である「天主教愛国会」という教会が成立しました。ちなみに中国語で「カトリック」は「天主教」と書き、一方で「プロテスタント」のことを「基督教」を書きます。紛らわしいのでご注意を。もちろんバチカン市国ローマ教皇庁はそのような会派を認めておらず、つい最近までその様な勢力は存在しないという態度を貫いてきました。そのためバチカン市国は良かれと思って中国人司教を大司教枢機卿にしたり、新たな教区司教を任命したりしましたが、当然逆効果となります。そして中国共産党も非公認のカトリックに対して厳しい取締りを行い、バチカン市国ローマ教皇庁と繋がりを持つカトリックは香港教区やマカオ教区に避難するか地下教会として隠れキリシタンのように非公然な宗教活動を行っています。そしてこの状況が現在まで続いています。

 次回はいつになるかわかりませんが、続きをお楽しみに!

疾風捉えたり

 『鋼鉄の咆哮2ウォーシップガンナー』というゲームがある。パラレルワールドに迷いこんだプレイヤーが、全世界を支配する「帝国」に対抗する「解放軍」と共闘し、世界を解放するーーというストーリーを口実に大艦巨砲主義を全面に打ち出した「ぼくのかんがえたさいきょうせんかん」を使ってバカスカ撃ちまくる愉快痛快爽快シューティングアクションゲームだ。今回はこのゲームの最初のボスである超兵器「ヴィルベルヴィント」を考察してみる。

 

基本スペック

超高速巡洋戦艦ヴィルベルヴィント」級一番艦「ヴィルベルヴィント

全長600m(?)

基準排水量不明

最高速力80kn(ノーマル)

武装

35.6cm55口径3連装砲4基
12.7cm両用砲2基
40mmバルカン砲十数基
3連装魚雷発射管6基
12cm30連装噴進砲数基
ミサイル発射機数基

 

 何故「ヴィルベルヴィント」は開発されたのだろうか。解放軍3個艦隊を瞬く間に全滅させる強力無比な超兵器建造計画が誕生した背景には解放軍の存在はもちろんだが、それに加えて広すぎる帝国の支配領域の維持が関係している。これに先立ちまずは巡洋戦艦について見てみよう。

 元来「巡洋艦」とは、植民地の維持をするために本国から長距離行動をする必要のある国が、航行能力と居住性を確保しつつ速やかに移動できる機動力を備えた艦艇を必要としたために開発された艦種である。その後単なる警戒部隊や植民地警備艦隊としてのみならず、装甲を備えて正面切った戦闘もある程度可能な「装甲巡洋艦」や「防護巡洋艦」が誕生し、巡洋艦は戦力の一部となっていった。「巡洋戦艦」はこの内「装甲巡洋艦」の発展型として登場した「主力艦と等しい火力のある巡洋艦」である。巡洋戦艦の産みの親であるイギリスのフィッシャー大将はその任務について以下のように述べている。

  1. 主力艦隊のための純粋な偵察
  2. 軽艦艇を主体とした敵警戒網を突破しての強行偵察
  3. 敵戦艦の射程外においての敵弱小・中規模艦狩り
  4. 遁走・退却する敵の追跡・撃破
  5. シーレーン防衛

ここからわかるように巡洋戦艦は決戦兵力ではなく大規模な補助艦艇として計画された。

 しかし「ヴィルベルヴィント」は明らかに巡洋戦艦の設計思想を無視したものとなっている。個艦戦闘能力が解放軍3個艦隊を凌駕するなど、いくら解放軍が雑魚でもオーバースペック以外のなにものでもない。したがって「ヴィルベルヴィント」は、巡洋戦艦と名付けられながらも、その実態としてはアイオワ級戦艦の様にたまたま速度が速かった戦艦、所謂「高速戦艦」であることは自明である。そこで何故このような一点豪華主義的戦艦を建造する必要が帝国にあったのかが問題となる。

 帝国の支配領域と支配の安定性、そして解放軍の規模にこの謎を解く鍵がある。帝国の支配領域は全世界である。このパラレルワールドは現実の地球と全く同じなので今の世界をそのまま想像してもらって構わない。そう、あまりに広すぎるのである。もし解放軍の跳梁に対処すべく全世界にまとまった数の兵力を駐留させようと思ったら、帝国の補給線は延びきり解放軍による通商破壊が頻発するだろう。したがって帝国の基本的な国防戦略は、最低限の戦力を全世界に駐留させて必要に応じて遊撃部隊を派遣する内線戦略とならざるを得ない。この事は各ステージの帝国艦隊がさして大規模でないことと解放軍艦隊がある程度まとまった戦力を保有できていることから、帝国の支配は必ずしも完全なものではなく綻びがあること、現地の帝国軍は解放軍を独自に殲滅できないでいることが分かり、帝国軍の駐留戦力は解放軍に対して著しく優位というわけではないと推察できる。また崩壊後の帝国が4つに分かれたことから、しばしばみられる封建国家や連邦制の君主国家の常として国内には有力な政治勢力が複数存在しており、各地の軍権はそうした権力者に委ねられていたと考えられ、帝室直轄軍は各地の軍閥の統轄と戦略予備のような存在とならざるを得ない。一方でこのように帝国を捉えると、地域によって登場する艦艇が異なる理由や全く異なる超兵器が建造された理由もわかる。そしてこの遊撃部隊を担っていたのが「ヴィルベルヴィント」である。敵軍である解放軍は、世界各地の戦線を維持しつつも「ヴィルベルヴィント」討伐戦に3個艦隊も投入できる有力な反乱組織である。したがって帝国の遊撃部隊には、世界各地の解放軍が同時に攻勢を開始しても防衛線崩壊前に駆け付けられる快足と、有力な打撃部隊として活躍できる戦闘力が求められており、「ヴィルベルヴィント」はこれに合致した艦船となっている。

 

PSYCHO-PASS三期決定記念!三期のテーマを予想してみる

 先程PSYCHO-PASSのアニメ三期の製作を知りました。楽しみな反面怖さもあります。というのも一期だけを前提に作ったらウケたので二期、三期……となる作品はしばしば尻すぼみになったり中弛みになったりして駄作となりやすいからです。しかしPSYCHO-PASSはそんなことないと信じています!そこで今回はPSYCHO-PASSの一期と二期のテーマを振り返って三期のテーマを予想してみます!

 PSYCHO-PASS一期と言えば「槙島聖護」でしょう。シビュラシステムに依存していては裁けない明らかな「悪」を体現する大変魅力的な悪役でした。彼の存在は「なぜ人間は法を作ったのか」の答えそのものとなっています。法の存在しないホッブズ的自然状態において、「正義」とは「力」そのものです。なんらの制約もない自由競争の中では手段が目的を正当化する強者の論理がまかり通ります。しかしそれでは圧倒的多数を占める弱者は「力」に虐げられるだけとなりますし、強者がもし事故や病気で弱くなれば誰かに虐げられる存在になってしまいます。この問題を解決するには「弱者に力を与える」必要があります。それが国家の「法」だったわけです。シビュラシステムの導入によって全ての量刑が犯罪係数に依存するようになった社会は、しっかり管理されているようでいて、その実「PSYCHO-PASS」という「力」を絶対視するホッブズ的自然状態が創出された社会なのです。槙島聖護はこの社会において反論の余地もなく「正しい」存在であるため、いかに彼が人を殺そうと、テロを企てようと、犯罪を幇助しようと、その行為は「免罪体質」という圧倒的な力によって正当化されてしまいます。これに非免罪体質の「弱者」が抵抗するためには、人間本位で作られた倫理観や規範、正義感に権力の後ろ楯を添えた「」を振りかざす必要があります。一期はこうした「法」を失った日本が直面した「裁けぬ悪、正当な悪」を生々しく描いていました。完璧な司法が法の欠缺に対処できなくなるなんて、なんと皮肉なことでしょう。

 PSYCHO-PASS二期は賛否分かれる作品となりました。特に鹿矛囲桐斗の目的がよく分からないという声はよく聞きます。ここで二期を軽くおさらいしましょう。鹿矛囲が複数の遺体を繋いだ多体移植で生還した人物であるという設定は、市民を色相で区別するシビュラシステムと無色透明(シビュラシステムは遺体をスキャンしない)な鹿矛囲を対比する上手い設定だと思います。加えて「免罪体質」故にスキャンされるけど犯罪係数が上がらない槙島聖護と違って、鹿矛囲は無色透明だからこそどこにでも入り込んで真相を探ることが出来るわけですから、この設定は物語上重要な要素でした。何故なら「WC? (What colour?)」という言葉の通り、鹿矛囲が知りたかったのはシビュラシステムに支配された社会の色相、そしてシビュラシステム自体の色相。言い換えれば「シビュラシステム社会の正当性」を鹿矛囲は探っていたのです。全ての市民を強者の論理に従わせるシビュラシステム社会を「気持ち悪い」と感じて破壊しようとした槙島聖護と違い、シビュラシステム社会を受け入れつつも、立憲国家における憲法のように権力に正当性をもたらす権威を違法な手段で探った鹿矛囲は、強いて言えば確信犯のような「悪い正義」の象徴でしょうし、同じことは免罪体質の脳を使っているシビュラシステムにも言えそうです。

 さて法自体の問題を突く「裁けぬ悪、正当な悪」、権力の正当性を疑う「悪い正義」を経て、三期には一体何が来るのでしょうか。そういえば劇場版ではSEAUnを舞台に「正義の悪用」も取り上げていましたね。私が思うに一期で法そのものを扱い、二期で法と権力の関係を扱い、劇場版で法に基づく権力の行使を扱ったことから、三期では「法の改正」がテーマになるのではないでしょうか。一期、二期ではシビュラシステムの想定しない事態が発生し、また劇場版とSS Case.2ではSEAUnを巡って外務省の花城フレデリカが厚生省に苦言を呈すなど、明らかに作品を重ねるに連れて、社会はシビュラシステムが当初想定していなかった状況になりつつあります。そろそろシビュラシステムがこうした事態に対応して「犯罪係数」の基準を変更したり、厚生省の権限を変更したりしてもおかしくないでしょう。加えて気がかりなのが、PSYCHO-PASS SS Case.2の最後に花城フレデリカが須郷さんにヘッドハンティングを断られた後に「いずれ受け入れざるを得なくなる状況が訪れる」と言っていたことです。そしてこのタイミングでの三期の製作決定。これまで外野となっていた外務省や国防省が厚生省の領域に踏み込んでくるだろうということは予測がつきます。するとシビュラシステムという完全密室の中で起きた法改正の正当性は誰が確認するのでしょうか。社会全般のためではなく、シビュラシステムのために法改正が行われていたら、誰がそれを止めればよいのでしょうか。特に憲法にも等しいシビュラシステムの判断基準や権限付与の基準は、しっかりと市民が本来監視して改廃しなければなりません。そしてこうした問いに対する回答はこれまで「PSYCHO-PASS」シリーズの中で語られてきませんでした。したがって私は「法の改正」がテーマとなると予想し、「変化する正義」が問われるような作品となるのではないかと考えています。

 とりあえずPSYCHO-PASS三期を楽しみに待っています!

『PSYCHO-PASS』の考察

 おはようございます。さて、劇場版PSYCHO-PASS SS Case.2をみてふと疑問に思ったところがあったのでこれを今日は取り上げてみます。

 「国防省」。須郷さんのかつての職場であり、シビュラシステム導入後の省庁再編を経てなお残る役所の一つ。その施設は外務省と同様に厚生省から独立した管理権限が認められています。しかし国防省について劇中で詳しいことは説明されませんでした。そこでこれを考察して国防省国防軍の中をより詰めたいと思います。

 

1. 国防省設立の経緯

 現在の日本にあるのは防衛省です。ではどのような経緯で防衛省国防省になったのでしょうか。私が思うにその鍵は日本の鎖国政策にあります。

 数年前にアメリカ合衆国の覇権からの後退と中国の台頭に対応するため、アメリカ以外の国との軍事提携も考慮した集団的自衛権の行使が容認されたことは記憶に新しいでしょう。日本は自ら覇権国となるか周辺諸国の勢力が均衡するかのどちらかが満たされない限り平和にならない火薬庫のような場所に位置しています。過去であれば米ソ、近年であれば米中の勢力が均衡したために、また冷戦後から中国の台頭以前まではアメリカ合衆国の圧倒的覇権が存在していたために、日本は平和を謳歌できたわけです。しかし日本が地域一の大国となり、また周辺に直接的脅威が存在しないにもかかわらず、極東が不安定化する場合もあります。例えば中国大陸が不安定な場合です。中国大陸の混乱に下手に手を出せば、際限ない大陸の縦深に人も物も金も吸いとられて国力を浪費してしまい、結果的に覇権国の陥落に繋がることは、当初は在外邦人の保護を目的に出兵し、気付けば全面戦争に陥ってしまった過去の歴史からも明らかです。一方で中国大陸が無秩序なままの場合、日本海は大陸からの避難民と、避難民や沿岸部を襲撃する武装集団で溢れかえることとなります。現在のシリア情勢における地中海がより程度を酷くしたものとなって日本海に現れたと思ってもらえれば大丈夫です。したがって日本が安全であるためには中国大陸からの混乱や勢力伸長を振り払う力が必要なのです。

 『PSYCHO-PASS』における日本は世界で唯一秩序だった国家です。近隣の朝鮮人民共和国は『PSYCHO-PASS ASYLUM1』で崩壊したとされ、また東南アジアのSEAUnは最近まとまりつつある現状にあります。そして日本が鎖国をした時にはかなりの国が崩壊国家になっていたでしょう。しかしソ連崩壊後にソ連海軍が株式会社となって艦艇を売りさばいた様に、国家が崩壊しても軍隊は独自の集団として活動することができます。俗に言う「軍閥化」はその典型です。したがって日本が鎖国をした時点ではこうした旧正規軍の軍閥が周辺地域に屯していたはずです。これは本国が荒れ放題となった在日米軍も同様でしょう。もっとも『PSYCHO-PASS SS Case.2』で描かれた様に在日米軍は完全撤退して沖縄の基地も完全に返還されていたため、恐らく鎖国と同時に日米安保条約は解消され米軍は撤退しています。しかし外務省、そして戦後日本にとって日米安保条約は対外政策と安全保障政策の根幹を成す最重要条約です。これを破棄したということは、日本が安全保障の矛と盾のうち矛を放棄したということを意味します。周囲を危険な武装勢力に取り囲まれながらアメリカの矛を放棄した日本が安定を勝ち取るためには、当然新たな矛を自分で調達して中国大陸からの影響を排除せねばなりません。そこで完璧な盾として鎖国を維持する国境警備にならび必要となったのが、国外の脅威を事前に排除する攻性の実力組織だったのではないでしょうか。

 『PSYCHO-PASS GENESIS』によると、シビュラシステム導入期に厚生省と縄張り争いをしていたのは「警察庁」と「国土交通省」で、鎖国にともなって外向きの役所はその権限をかなり縮小しています。その筆頭が外務省で本省は霞が関から「出島」と呼ばれる福岡の人工島に移され、廃止された法務省の仕事であった入国管理を請け負っています。『PSYCHO-PASS GENESIS』で言及がなかったことから国防省自体はかなり初期にシビュラシステムと共存する関係になったことは疑いありません。過度な介入を阻止しつつ、鎖国の脅威となるものを国外で排除するという微妙な綱渡りのためには正確かつ冷静な状況分析と政治的判断が不可欠です。この点シビュラシステムは世界最高のスーパーコンピュータであり、人間よりこうした判断に長けています。したがって国防省がシビュラシステムと初期から共存し、日本に降りかかる火の粉を払う腕となっていたことは合理的に推察できます。

 国防軍がそうした国外の脅威を排除する組織であったことを窺わせる描写が作中にいくつか存在します。まず須郷さんらが運用していた航空ドローンは、劇中のシーンに基づけば兵装した上でSEAUnまで自力で移動できるだけの航続距離があり、治安維持や国境警備には過剰な装備品です。また須郷さんの所属していた特殊部隊の訓練は到底日本ではあり得ない亜熱帯のジャングルへの潜入を前提としたものでした。加えて『PSYCHO-PASS GENESIS』でドミネーター(スローター)の技術は周辺諸国を考慮して軍事転用していないという記述があり、現に作中や『PSYCHO-PASS2』でも国防軍の装備は実弾兵器で占められています。これは日本を軍事的脅威として周辺諸国が団結してしまわないよう配慮したのみならず、周辺諸国が21世紀の遺物のような兵器で紛争している(例:『劇場版PSYCHO-PASS』のSEAUn)中で、不用意にレーザー兵器技術を流出させて武装勢力が軍事力を強めてしまうことを防ぐためではないでしょうか。また装備品の観点でも、公安局と国境警備隊にはドミネーターが配備されているものの、国防軍にはドミネーターの技術を利用した兵器が配備されていません。したがって国境警備と治安維持は厚生省、それ以外の脅威、つまり国外の脅威の排除は国防省の所掌事務であると言えます。

 しかしこうした攻性の実力組織である国防軍は現在の日本国憲法と大きく矛盾する組織です。恐らく鎖国に伴って

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

という日本国憲法の前文が成り立たなくなったため、9条の改正も含めた大胆な改憲が行われたと考えられます。この際「防衛省」は「国防省」に名前を変更して専守防衛の組織から「国家防衛のために行動する攻性組織」に変革したと推察されます。

 今日はここまでとし、次回は国防省国防軍の組織について見ていきます。

『イノセンス』考3


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 「犬」。はい、今回は「犬」について考えていきます。有名な話ですが、このわんちゃんは押井作品の至るところに出てきているので要チェックです。そしていろんなところに出てきているということは、この「犬」自体には特別な意味は込められていないということが分かります。しかし一切無駄のない『イノセンス』において犬のカットがかなり多いことに気づきます。したがって「犬」を「愛玩動物の象徴」とみたとき、この「象徴」が作品に何らかの意味を付与していると推測できます。作中でも言及されていたように、理性や人間性という意味での「精神的完全性」は、全知全能なる「神」とそれらと完全に無縁な「非人間的生物」のどちらかによって実現するものであり、人間はどちらにも属せない中途半端な存在です。その意味で「犬」は人間よりも神に近い存在である「動物」の象徴として度々取り上げられていました。しかしこれ以外にも「犬」の存在意義はあるのではないかと私は考えました。これについて詳述しましょう。

 「バトーは犬を飼っている」。ここに私は注目しました。作中では「人間の子育て」と「子供の人形遊び」を人造人間の夢の実現とハラウェイは考えていました。これについて人間が神に憧れ、神のように新たな生命を産み出すために、人間は自らに似せた人造人間を錬成するのだ、とする解釈があります。しかしこの考えには根本的な欠点があります。人間を神が創造したということを受け入れた人でなければ神に憧れることなど起こり得ないのです。にもかかわらずこの考えはこうした神への憧れを言わば当然のものとして前提にしています。信仰という普遍性の極めて乏しいものを前提とした解釈は、当然それだけ反論や反証を示すことができるため余りに無駄が多いように感じます。そこでハラウェイの発言をやや異なる切り口から解釈し、何故バトーは犬を飼っているのか考えてみましょう。


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 先程批判した解釈は「何故人間は自らに類似した存在を作るのか」の考え方を違えたために導かれたものです。もっともこの解釈にも説得力はあります。物心二元論に基づいて、人間が中途半端さを補完する手段として神のように自らの理想形を創造したという考えは一理あります。しかし私が思うに『イノセンス』が伝えたいことは物心二元論に基づく人間の再定義ではなく、むしろはっきりとした物心二元論批判なのではないでしょうか。すると物心二元論に基づく解釈は話の本筋から外れた解釈だと言えます。私がこのように考える根拠は最後の助け出された女の子の台詞です。女の子はバトーに対して「だって、だって、私はお人形になりたくなかったんだもの~!」と叫んでいました。もし物心二元論に基づいて考えるなら、人間はその中途半端さを補完するために進んで人形になるはずですし、そのような台詞をストーリー上言わせるはずです。ところがこの女の子の台詞はこれまで述べてきた人間の中途半端さの補完を全て拒否したものとなっています。もしこれらを全て合わせて強引に物心二元論的に「人間」を説明すると以下のようになります。「人間とは、その精神的な中途半端さ故に動物や神に憧れるが、自ら人間性のない動物や人形には憧れず、むしろ拒む存在である」。説明の中で矛盾が生じています。人間は神になりたいのか、それとも憧れはしても今の状態に満足しているのか、どちらの解釈もできそうです。しかし草薙のように完全な精神の状態になることは到底不可能である以上、大半の人間は神や動物、人形に憧れはしても変わりたくはないというワガママな状態に立つ存在であると言えるでしょう。しかし物心二元論と人間の中途半端さを強調する解釈によれば、物理的もしくは精神的に完全体になることは人間の目指すべき到達点であるわけですから、これを拒絶するのは論理的にやはりおかしくなってしまいます。故に物心二元論ではこの「ワガママな人間」の説明を十分に行えないのです。

 ここで割りきってこう考えてみましょう。「人間は自分の及ばぬものを見ることで、自分がそれらとは異なる他ならぬ『人間』であることを再確認したがる不安定な存在である」と。つまり心身それぞれの完全性の憧れと追求という難しい考えから、心身を区別することなく自分と他者を比較して差異を再確認するというシンプルな考えに変えてみました。例えばロボットや人形を人間の理想形に模して作ることで、顔の美醜がある人間と模範的かつ規格化された顔を持つロボットは異なるという存在確認をする。物言わぬ人形と戯れる子供は、ごっこ遊びと実際の家族の差異を人形と人間の比較から確認し、自分が人間の集団にいると自覚する。子育てを通じて親は自我の確立した存在である自分を再確認する。そしてバトーは、自由気ままでマイペースに生きる飼い犬と過ごすことで、常に政府に首輪をつけられている自分を比較することができる。また自分では何も出来ない犬の世話を通じて、自分が人間らしく生活していることを実感している。この様にバトーが犬を飼っている理由は、それによって自分の現在を再確認することができるからと言える。

 まとまってませんが以上です。

PSYCHO-PASS SS Case.2について2

 こんばんは。昨晩は眠たい頭に鞭打ちながらスパーリングロボに毒ガスの事実を教えたのは死ぬ直前の大友逸樹であること、大友逸樹と大友燐の復讐計画は異なることを書きました。因みに大友逸樹が大友燐に毒ガスの事実を教えた方法ですが、戦地から本国への回線が開かれていたことと彼自身が電子戦もこなせるであろう兵士であることから、短い簡単な情報だけなら軍の回線から送れたのではないでしょうか。ここについては私の憶測が先行しているので根拠は薄弱です。しかし突然須郷さんとの回線を遮断された大友逸樹が何かを悟って最後の記録を送る用意をしていても不思議ではありません。

 さて、今夜はまず2番目の疑問、須郷さんにメッセージ入りブランデーを残した理由について考えていきたいと思います。あのメモリーの中に入っていたのは秘匿されていた原潜の存在でした。そしてそれを頼りに地下ドックへ向かった須郷さんとの格闘戦の後、大友逸樹のスパーリングロボは「ここにいるってことはあのメッセージに気付いたってことだな」と語りました。恐らくこの語りはスパーリングロボが須郷徹平に打ち倒されることで発動されるものだったのでしょう。ですがわざわざこのようなメッセージを残した理由はなんだったのでしょうか。拙稿「PSYCHO-PASS SS Case.2について1」で申したように大友逸樹の復讐相手は組織です。したがって大友燐の復讐計画を通してみたときに上がるであろう須郷さんを復讐対象の旅団長と作戦本部長から遠ざけるためという理由は的外れと言えるでしょう。むしろ大友燐がその状況を利用して単身襲撃による復讐を計画したに過ぎず、大友逸樹は全く別の目的だったと考えられます。私が思うに当初あのメッセージが内部告発の材料兼交渉カードだったのは確実でしょう。しかし復讐計画の失敗を意味する自身の敗北を発動条件とした更なるメッセージを用意したことから、復讐開始後のあのメッセージの意義が須郷さんをあの場に連れ出してもう一度戦うことに変わったのではないでしょうか。まるで『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』みたいですね。もし須郷さんが気付かなければ無事組織への復讐を完了し、もし須郷さんが気付いたら須郷さんと戦うことができる。大友逸樹にとっては負けのない計画だったのでしょう。それの鍵となるのがあのメッセージだったのです。

 そして3番目の疑問。いつ頃この復讐計画は立てられたのでしょうか。私が思うにこの計画はそれほど準備されたものではないと思います。これまでも述べてきたように大友逸樹と大友燐は共犯のようでいてその根本は一致していませんでした。また手口もドローンによる銃撃と爆発という単調なものです。恐らく劇中で「訓練中の不慮の事故」に見舞われて亡くなった隊員がドローンを手引きしたのでしょうが、あまりに攻撃が散発的です。故にこの計画は手段だけ共有された上で各個に立案された一過性のものであると言えます。

 以上をまとめると、原潜の使い道が復讐であることは間違いないものの、大友燐の考えたような餌としてのみならず、国防省と外務省に止めを刺す銀の弾丸として大友逸樹は使おうとしていたのでしょう。劇中で禾生局長が懸念していた国防軍のクーデター疑惑。もしも隠匿された原潜の存在が明らかとなり、しかもそれが外務省の受け持ちであったかつての日米安保条約の残滓だと分かれば、シビュラは間違いなく両省の特権を叩き潰して粛清するでしょう。原潜の存在を公開すること、それこそが大友逸樹にとっての原潜の使い道だったのではないでしょうか。

 一応結論を書いたところで余談です。私が思うに二人の復讐計画こそ『PSYCHO-PASS SS Case.2』のテーマである人間関係と相互理解の象徴と言えるでしょう。フットスタンプ作戦に人生を狂わされた二人が、ドローンによる国防省と外務省への攻撃を通して復讐を達成する。大枠は同じなのに二人の見ている先は最後まで一致しませんでした。自分の憎しみを和らげるために大友逸樹を利用して正当化した大友燐。組織への復讐と実行する過程で須郷さんとの再戦を望む大友逸樹。私はずっと不思議だったんです。なぜ復讐を遂げる大友逸樹が大友燐に言及しなかったのか、と。恐らく彼は大友燐が自分のために破滅的な復讐をすることなく、強く清らかに生きてくれることを確信していたのではないでしょうか。故に彼はこの復讐を自分だけのものと最後まで考えていた。だが現実はそうならなかった。どんなに分かり合えているつもりでも、その実人間は根元的に孤立した存在であることを痛感させられる、そんな映画でした。(了)

PSYCHO-PASS SS Case.2について1

【注意⚠】ネタバレがかなりあります

 かなり遅くなりましたがPSYCHO-PASS SS Case.2を見てきました。一期二期劇場版とそれぞれのストーリーが絡み合った展開や、PSYCHO-PASSの不憫美人キャラとして私が地味に推してる青柳監視官の活躍なんかが、こう、心にグッと来ましたね。しかし何といっても須郷執行官の意外な、そして不幸な過去が明かになり、ただのイケメン脇役から脱皮したのがとても印象に残ってます。

 さて劇中で明かされなかった謎に「原潜の使い道」があります。模擬人格の大友逸樹が「復讐と聞かれればその通りだ」と言っていましたが、ここでいう復讐は劇中で大友燐が行ったものとは確実に異なります。何故なら彼女の復讐は須郷さんを餌にフットスタンプ作戦の関係者を釣りだし、自らの手で一網打尽にするというものであり、かの原潜を利用する必要は微塵もありません。したがって彼もしくは彼らの復讐計画は原潜を利用したより大規模なものであったことがうかがえます。

 では本来の復讐計画はなんだったのでしょうか。ここで考えねばならない事が3つあります。一つ、フットスタンプ作戦で死んだ大友逸樹の模擬人格はいつ、いかにして毒ガスの事実を知ったのか。二つ、何故須郷さんにメッセージを残したのか。三つ、復讐計画はいつ立てられたのか。

 一点目について今晩はまず考えていきたいと思います。作戦参加者の須郷さんが作戦中は勿論その後クラッキングをしても知らなかった毒ガスの事実を何故大友逸樹の模擬人格は知っていたのでしょうか。確かに大友逸樹の模擬人格は、生前の本人による同期とプログラミングを基礎に大友燐が手を加えて完成させたものです。しかしそうだとすると、時系列からして大友燐が何らかの方法で毒ガスの事実を入手し、それをスパーリングロボにダウンロードしたと考えないとなりません。ではその事実を大友燐はいつ知ったのでしょうか。これを考え始めるとおかしなことに気づきます。作戦関係者ですらない大友燐があまりにも作戦のことを知りすぎているのです。これについては、誰かが大友燐に教えたか、大友燐が関係者を籠絡して聞き出したかの二者択一となりますが、彼女の実直で素直だがストレスを過度に背負い込む性格からして後者より前者の方が可能性が高いでしょう。しかし毒ガスの事実を知っていて、かつそれを大友燐に教える人がいたのでしょうか。恐らく大友逸樹を除いていないでしょう。したがってこの事実をスパーリングロボに送ったのは死ぬ直前の大友逸樹その人だったとしか考えられません。

 しかしここで注目してほしいのが二人の復讐の動機です。彼女の復讐の動機はやり場のない憎しみの発散でした。大友逸樹が出撃前に残した「強く生きてくれ」という言葉を曲解して自己正当化を図っていましたが、それでも向けられた怒りの矛先はやはり作戦を指揮して大友逸樹を殺した上層部の個人なのです。そのためストーリーでは国防省と外務省への攻撃は陽動であるかのように語られていました。一方で大友逸樹は生前からシビュラシステムによる殺人の正当化に疑念を抱き、模擬人格も捨て駒とされたことより国防省と外務省が化学兵器を使用したことに憎しみを向けていました。そこから自然と導き出される復讐の動機は、非人道的手段を正当化する非人間的な国防省と外務省への憎悪をシビュラシステムに捕らわれない(≒合法的な)方法で実行することであると言えます。復讐について聞かれたときの「彼らがやったようなことを彼らに味わわせてやるのさ」という台詞はその証左です。したがって大友逸樹にとって国防省と外務省への攻撃は主攻であって陽動ではありません。すなわちこの作品では同時に二つの復讐がさも一つであるかのように描かれながら進展していたのです。

 いかがでしょうか。次回は二点目と三点目について考えてみます。